原点は中華そば「八万屋」
八万屋さんといえば、豚マンやシューマイ、餃子で広く知られるが、もとは中華そばから始まっている。
そしてさらに他の中華そば屋と異なるのは、中華そば・豚マン・シューマイ・餃子以外に八宝菜・酢豚・天津飯などのメニューが存在すること。
創業当時の談話より(創業者の奥様(社長)と元工場長小方氏)
創業者の奥様で社長の「薮内シゲ」さん(大正14年生まれ)と、15歳で勤め始めてから八万屋一筋の人生を送ってこられた元工場長「小方哲夫」さん(昭和13年生まれ)に創業当時のお話をおうかがいしました。
創業者は「薮内道雄」さん(大正7年生まれ)。 道雄さんが東京の陸軍勤務時代に知り合ったシゲさんが関東から徳島にお嫁に来たのが昭和23年、小方さんが15歳で八万屋に就職したのが昭和29年。
道雄さんは徳島市上八万町に生まれ、東京の大学に在籍中に陸軍へ、そしてシベリアから帰ってきたのが昭和22年の暮れ。その後徳島市佐古にあった「桝谷鐵工所」(この時同僚だったのが“よあけ”の創業者「戸川英夫」さん)に勤務するもほどなくして廃業となり、昭和24年から母親(エツノさん、明治生まれ)が営業していたうどん屋を手伝い始める。
しかし学生時代に食べた中華そばの味が忘れられずにいた道雄さんは、戸川氏の「支那そばしたら?」とのすすめもあって、九州や神戸に食べに行って勉強し、中華そばの店にした。昭和26年ごろには戸川氏も中華そばの屋台を始めている。(エツノさんの「いっそ“よあけ”にしたら?」との言葉もあって屋号は「よあけ」としたらしい。)
昭和30年には店を新築、当初は中華そばだけだったが、それだけではつまらないと、豚マンやシューマイ、ワンタンなど次々にメニューを増やしていく。現在八万屋の看板メニューにもなっている豚マンは、当時イーストが粒状であったため加減が難しく、もともと中華料理の職人であった方(後の“安福”の職人となる)にその作り方を教わったりもしたが、ほどなくして現在と同様のイーストになり、スムーズに作れるようになったという。
翌年頃には蔵本へも出店している。徳島市寺島本町(現在のササクラスポーツさんの辺り)にも店を出していたこともある。
小方さんいわく「当時は自転車で出前をしていた。佐古まで出前をして、やっと店に帰ってきたと思ったら親父(道雄さん)が店の外で箱を持って待っている。「またボクすまんけど行ってよ」と言われてゲッソリ。とにかく忙しかった。自転車もよく盗まれた。」
創業当時から現在の位置(もとは紺屋町2丁目という住所だったが、昭和50年に紺屋町は1丁目2丁目がなくなり、八万屋は籠屋町に含まれることになった)にあり、昭和30年に店を新築した時はブロックが出始めた頃で、使ったのはおそらく徳島初だったのだろう、人がよく見に来たという。
また、現在と同じように2階建てで、1階で作った料理を2階で食べるお客さんに運ぶため、料理運搬用のエレベーターも設置した。
それらがいかに珍しく“ハイカラ”であったかは言うまでもない。
道雄さんは従業員を大阪へ修行に出し、中華料理を習得させ、昭和44年ごろから約10年間、銀座OKビル地下1階で「八萬(パーワン)」という中華料理店も営業していた。しかしそんな道雄さんも54歳という若さで亡くなり、当時大学生だった長男「薮内良昭」さん(専務・昭和28年生まれ)が徳島へ戻り、次男「正昭」さん(昭和31年生まれ)とともに後を継いでいく。その後、豚マンやシュウマイなどの製造工場を建て、アミコ店を徳島そごう開店当初(昭和58年)から平成21年9月まで地下1階に出店していた。
⇒取材のためお店にお邪魔したのが夜7時すぎ。頻繁に出前の注文が入り忙しくされている中で快く昔話をして下さった専務。
お店は夜中3時まで営業をされているので、1杯飲んだ後の〆にもぴったり。
八万屋人気メニュー
「八万屋」ラーメンデータ | |
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スープ | 黄金色の懐かしい味わい。 |
麺(太さ/種類) | 細/ストレート麺 |
肉の種類 | チャーシュー |
普通に入っている具 | ネギ・もやし・メンマ・チャーシュー |
「八万屋」お店データ | |
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住所 | 徳島市籠屋町2-16-2 |
TEL | 088-626-1838 |
営業時間 | 11:00~翌3:00(15:00~18:00はお持ち帰りと出前のみ) |
定休日 | 火曜日 |
駐車場 | 無 |
創業 | 1949年(昭和24年) |